「残す」ことを前提とした設計
2011.09 07

ここでの「残す」とは、継承というニュアンスを含んでいます。子育てをし、親の気持ちというものが分かり始めました。親は自分に何を残そうとしていたか、自分は何を残せるのか?自分の中で非常に大きなテーマとなりつつあります。残すことを前提に何かを始めるというケースは恐らく少ないと思います。

    私が住む青森県弘前市は城下町。歴史的な建造物にも恵まれ、いわゆる老舗と言われる古くからの素敵なお店もたくさんある。その中で、カクミ小路という有名な通りがあり、そこには太宰治が通ったという店など、風情のある通りだ。

    その通りにレストラン・ニューマツダという洋食屋さんがあった。丁寧な仕事とリーズナブルな価格設定、男性も女性も楽しめるメニューとボリュームで、知る人ぞ知る人気店であった。

    しかし、いつ頃からか不定休になりがちで、空振りすることもよくあった。それもまた、今度もまた来ようというスパイスにもなっていたのだけど。夫婦ともども、このお店のファンだったので、子どもが大きくなって最初に連れて行く洋食屋は絶対ここにしようと話題にしていたぐらいだったが、惜しまれつつ閉店となってしまった。シェフの体調が悪くなってしまったらしい。あまりに残念であった。

    古くからのお店は後継者という問題に悩まされる。誰もが知る有名店なら、修行したいと訪れるかもしれないが、地方で地元の人が楽しむ小さなお店となると、継続するための選択肢も少ない。子宝に恵まれ、親と同じ道を志し、親以上の味を持って受け継いでいく店もある。美談ではあるが、現実は厳しい。道半ばで店主が亡くなられ、奥様が必死の努力で店を繋いでいく例もある。しかし、中心となっていた人の代わりなど、いるはずもないのだ。

    その店ならではの基礎を身につけ、そこに新たな発想を上乗せすることで連綿と続く老舗を経営している例もある。生存競争に勝ち続けている証なのだろう。何が決定的に違うのだろうか。最初からできているとは考えにくいが、「残す」ことを前提に業務設計をやり直す時期を設けているのだと思う。生涯現役でいることは、職人としては素晴らしいことだと思う。しかし、時間という絶対基準がある以上、代替わりをしていく設計を描いておかなくてはいけないのだ。

    では、何を残すのか?資産、設備といった物理的なものではない。一子相伝とも言うべき技術か?技術とは何だろうか。技術を身につけた人間の思想なのだと私は思う。つまり、考え方だ。状況は刻一刻と変わる。時代も変わる。価値観も変わる。しかし、人間が人間を超えない限り、考えるという能力が唯一にして最大の武器なのだろう。

    私たちを取り巻く様々な物質は、考え方を具現化したものであり、生産者として生きるなら目を向けるべきは物質の裏側に流れる考え方だ。

    残し方を設計してみようと思う。正確には試行錯誤中だ。今はマインドマップをベースとした形で始めている。残す相手は娘。もしくはその先の家族。マインドマップの問題は1ノードあたりの情報量を少なくしたほうが良いこと。しかし、全体を常に見渡せること、ノード間の関連や派生が一目でわかる視覚表現は非常に素晴らしい。MindNode Proを使っていて、ノードに写真はファイルを指定できるので、1ノードあたりの情報量を自由に操作できるというのが普通のマインドマップとは違う進め方だ。

    Wikipediaのようなテキストベースの百科事典の場合、関連をたどる時に思考の流れが自然であることは良いのだが、全体を見渡しにくいこと、情報の追い方が線形になりがち、現在地を見失ってしまう、という欠点がある。その点、マインドマップは派生の結末から見ることも可能だ。ただ、異なるメインブランチとリンクするノードが増えてきた場合、カーソルが無数に交差してわかりにくくなる可能性がある。

    現在はメインブランチの精査と、確定したメインブランチからの派生を進めてみている。自分史のような時系列ではない表現もありがちだが、年齢というビューは時間に沿った考え方になってしまい、自由をかえって奪うのではないかと今は考えている。今後も、この試行錯誤はブログでも共有していく予定。

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    Twitterなどで失言する人に見えるパターン
    2011.06 18

    AERAの「放射能がくる」への反響、ソーシャルネットワーク上での失言による炎上、言葉は常に諸刃の剣です。大小問わず炎上した経緯を眺めていて、失言する人のパターンという仮説を立ててみました。

      インターネット上でよく見る失言からの炎上というパターンに、ある傾向を感じ取れた。Toggeterが存在するので、Web魚拓替わりとして炎上に至る経緯が見える。

      パブリックを自覚しているか?

      最初に火蓋を落とす発言者の性質は大きく2つに分かれる。発言している場所がパブリックである認識があるか、ないか。それぞれの特徴を上げてみる。

      パブリックの認識がある場合

      • 知識量に優位性がある素振りを見せる
      • 批判に見せかけた非難の意図が見え隠れする
      • 多数の閲覧者・監視者がいることを知っている
      • 自分の発言によって注目を集めたいと考えている

      パブリックの認識がない場合

      • 感情的かつ攻撃的な言葉選びをする
      • 情報の機密性を考慮していない
      • 自分の発言に対する反応数を想定していない

      火種が生まれるパターン

      今回は前者に焦点を当てる。発言内容の特徴として以下の2つがある。

      必要以上に極端、大げさな言葉を使う

      火種がうまれる発言のパターン1つ目

      あえてインパクトある表現をしようとした時に、多数の解釈が可能な言葉を選ぶ。本来伝えたい内容に余分な要素が入ることで、背景の異なる人達がそれぞれの受取り方をする。発言者が想定しきれていなかった反応があると炎上につながる。反応した人がより知識をもっていたり、当事者であったり、影響力の強い人であると炎は更に大きくなりやすい。

      必要な説明を省略する

      火種がうまれる発言のパターン2つ目

      前提や補足、情報源を省略することで、情報を受け取る側が自分の知識で保管する必要がでる。知識量が及ばなかったり、過去の経験から不安要素が大きくなってしまい、情報の真偽について正確な判断ができなくなる。発言者が受け手に対して「このぐらい知っているだろう」と考えているのか、「あえて省略している」かでは話が違う。「あえて省略している」場合は必要な情報を隠しているので、扇動の可能性がある。

      読解の制限はミスリーディングの温床

      発言内容に関する2つの特徴について言えることは、Twitterを例にとると、文字数制限があったり、前後関係が分断されていることから、余計に火種が発生しやすくなっている。
      インターネットはパブリックな場所であること、言葉は諸刃であること、この認識が薄れる状況は光と影を持っている。

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      情報処理技術者として私が目指すこと
      2011.06 01

      IAという言葉があります。プログラミングやデザインといった情報を具現化する手法は数あれど、その過程は属人的なノウハウであることが多く、他者との共有が難しいものです。それを言語化、図解する取り組みは過去にも数多ありますが、WEBデザイン上における同取り組みに正式な呼称がついたと捉えています。私も似た取り組みを行なっている者として、今後の指標を自分に書き残します。

        プログラマとして働き、フリーランスになってから3年目になる。情報処理技術者試験というものがあるが、そもそも「情報処理」ということについて見つめ直さねばと考えている。いや、ずっと考え続けている。しかし、もう何となくではダメなのだ。

        開発者として活動する傍ら、講師としての活動も行っている。そこでは情報リテラシーについて自発的に学習してこなかった人が多数いる。今やPCスキルはあって当たり前の時代とは言われているものの、日本の普及率は60%で頭打ち。これだけインフラが整備されている国にもかかわらずだ。更にその中で情報リテラシーを持っていると言える人はどれだけいるのだろうか?

        震災でインターネットは何の役にも立たなかった。それはそうだ。通信インフラが破壊された世界でインターネットは人を救えない。しかし、インフラが復活し始めてから情報を手に入れられない、いわゆる情報格差によって損をしている人がいるのも事実だ。

        情報社会という手垢まみれの言葉への考察と提案は星の数ほどあったはずだ。しかし、たかだか50年程度の歴史しかないとはいえ、情報処理への取り組みは疎かなままだ。新たな技術が、新たなサービスが日々生まれている。日本は創造という分野で負けている。そう感じている。精度を上げたり、細分化することで右にでるものはいないのだけれど。

        何も全員ブラインドタッチができるようになれとか、プログラミングできるようになれとかを言いたいのではない。いや、プログラミングはできた方が得だが。ともかく、私はプログラマとして、情報処理技術者としての道を選んだからには何かを残したい。

        当然、モノで残すのは宿命だと思うのだが、それらは時代と共に変化するので恒久的ではない。人間が情報に価値を見出し、未来も情報に価値を求めているのが人間ならば、考え方を残したいと思う。歴史的格言が現代にも影響を与え続けているように。

        記憶力よりも応用力

        講師として毎度実感することは、習う人間の背景は千差万別であり、解釈にも多様性があるため、厳密な知識を全員に共有するのは非常に難しいことだ。だが、そもそも厳密な知識が必要な場面はどれだけあるのだろうか?大概の状況において、重要なのはHTTPの仕様の暗記ではなく、HTTPの特性や使いどころを知ることだ。立ち位置にあった情報、つまり状況にあった視点を持ち、それに相応しい粒度の情報を得ることなのだ。

        さらに大事なのは、適切な情報にたどり着く術を持っていることだ。私にとって講師の役目とは、辞書の単語を教えることではなく、辞書の使い方を教えることだと考えている。英和だろうが仏和だろうが英英だろうが何でも構わない。何を選ぶかは状況によって変わる。しかし、使い方がわからなければ思考が止まってしまう。

        これからのビジョンと当面の目標

        これまでに述べたことは珍しくも何ともない。何を当たり前のことをと思う。しかし、情報処理という概念やその過程を適切に言語化、図解して多数の人に理解してもらえる人はどれだけいるだろうか?多くの人は情報処理を体験として蓄積しており、自分だけなら理解できるとしても、同じことを前提の異なる人間に対して具体的に共有し、自分と同等かそれ以上の結果に導ける人はどれだけいるだろうか?

        情報処理の重要性を認知し、自発的に処理能力を向上させる意識を持ってもらう。私の講師活動における最初のゴールだ。そこからがまた、新たなスタートになる。今度は情報処理の効率を上げていく。これは生産活動の効率化に直結する。すると何を期待できるか。有限であり、絶対的な存在である時間を圧縮できる。そうすれば未来が近くなる。

        私は今のスピードで死ぬまでに体験できるであろう未来よりも、もっともっと遠くの未来を体験したい。未来の渦中にいたい。直近の目標としては、今の生産性で体感している24時間を48時間相当にしたい。それはつまり、未来への距離が半分になる。子供だましのような数え方だし、大仰な話だが、私にとっては大真面目な話であり、これからのアンカーとなる。

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        休日分散と美容院の定休日に見る風習の捉え方
        2011.05 24

        休日分散の動きが大手企業から順に実施されている。定休日が土・日という風習が変わっていくかもしれない。 以前、ひょんなことから定休日について調べたとき、なぜ美容院は月曜日に休むのかを知った。 東京では火曜定休の店が多いが、 [...]

          休日分散の動きが大手企業から順に実施されている。定休日が土・日という風習が変わっていくかもしれない。
          以前、ひょんなことから定休日について調べたとき、なぜ美容院は月曜日に休むのかを知った。

          東京では火曜定休の店が多いが、全国的には、やはり月曜定休が主流らしい。
          では、そもそもなぜ月曜が定休日になったのか。全日本美容業生活衛生同業組合連合会に聞いた。
          「ご指摘の通り、全国的には月曜定休が多いんですが、それはずいぶん昔、戦前の電力事情がよくない時代からのようなんです」
          と言うのは、広報担当者。

          かつてはコールドパーマなどがなく、髪に何十本も電極をつける「電髪(でんぱつ)」というパーマが主流だったそうで、美容室=電気を大量に使う場所とみなされていたそうだ。
          「そこで、電力の供給にあわせて、休日の後、つまり、月曜には電気をたくさん使うものをストップしようということで、美容院を休みにすることになったと言われています」
          ただし、これはあくまで憶測で、本当かどうかは不明とのこと。ちなみに、美容院の定休日は、かつて月曜定休だった百貨店にあわせているという説もあるようだ。

          諸説紛々のようだが、電力事情について戦前まで遡ることになった。当然、潤沢な電力が今のようにあるわけがない。

          「定休日」がきっちり決められたのは、昭和35年前後。
          「『適正化規定』という法律に基づいて、都道府県ごとに、組合が定休日や料金、営業時間などを決めることになったんです」
          ただし、これも今では「公正取引委員会」の指導により、完全に自由になっている。つまり、いつ休んでも、休まなくてもいいわけなのだが、それでも月曜定休が多い理由は、
          「都道府県ごとに決まっていた頃のなごりでしょうね」

          「なごり」という慣性の上に私たちは暮らしている

          今年の2月、ちょうど青森県弘前市では、弘前城築城400年を記念して、江戸時代の頃の弘前(当時は津軽藩)の殿様の食事を再現するという催しがあった。料理の復元を担当した、さくら亭の料理長は、父の旧くからの友人でもある。
          保存性、味、もてなし、といった一度にすべて満点にするのは難しい要素を、見事にバランスを取りながら昔は食事をしていたことを体験できた。
          特に現代は減塩志向なので、保存に使う塩分量はまったく違う。刺身につけるタレも、醤油ではなく煮切り酒を利用していたりと、最後まで興味が尽きなかった。

          幼少から食べている食事、そして郷土料理と呼ばれている食事を振り返ってみると、江戸時代にかなりのものが定着し、その「なごり」として現代に残っていることもよくわかった。
          定着した風習というものは、なかなかに覆りにくく、それが社会に浸透することで「伝統」なり「文化」となるのだろう。

          風習という前提は時に危険

          プログラマとして様々な生産活動をするに当たり、「思想」「志向」に触れる機会は多い。これらを知り、学ぶときに気をつけるのは、鵜呑みにせずよく咀嚼してから、自分の考えに組み込むことだ。
          それに時間がかかるのは良いことであり、重要な体力づくりである。余談だが、プログラマーではなく、プログラマとかサーバとか記述するのも、とある風習というか制約によるなごりだと、先輩に習ったことがある。

          これまで点だった知識が線としてつながる体験が増えるなか、大事だと感じるのは起源を知ることだ。不思議なことに、高度な概念も起源は実にシンプルだったりする。「そんなこと!?」と思うほどに。特に風習の起源は、大したものでなかったりするのも興味深い。
          「思想」「志向」の源泉が実はある「風習」から来ている可能性をたぐるのは、思考の助け、起源を知る機会になる。そもそも、その風習(前提)は本当に必要だったのか?という投げかけが、新たな切り口となる。

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          それでも私がブログを書きたくなる理由
          2011.02 08

          世界に向けて発信することが、今は非常に簡単にできます。情報の性質が日々変化していく中で、あえて残したい情報として何が考えられるでしょう?そして、残したい理由は?自分のブログに対するスタンスを振り返りつつ整理してみます。

            あなたはフリーランスとして生き残れますか?の一部でも触れていますが、現在、私たちの活動コストはとにかく下がっています。その中でも顕著なのは発信コストです。
            個人ブログはもちろん、SNSやレビューサイトなど様々なサービスを通じて、誰もが自分の言葉を世界に発信することが出来ています。Webのリアルタイム性が既存メディアのスピードを凌駕しつつあることに、驚きと希望を抱く一方で、懸念を抱くこともあります。

            住み分けと使い分け

            発信コストが下がったものの、その内容は断片化してきており、情報の濃度も薄れがちです。とはいえ、Twitterのようなリアルタイム性に優れ、参加者数が世界規模となると、エジプト反政府デモのように、波及効果は眼を見張るものがあります。携帯電話がなかった頃にどうやって待ち合わせをしていたかを思い出せないように、もはやデファクトといえる各Webサービスが無かった頃は思い出せません。

            内容の断片化につられ、文章の読解・作成にかけられる時間も断片化してきていて、「まとめ」を売りにしたコンテンツやツールが増えています。利用者は使い分けが進んできています。瞬間的な情報はTwitter、啓蒙や分析といった時間がかかる情報はブログと使い分ける人が増えています。

            私が求めている情報

            刻々と流れる情報で何を望むかは人それぞれですが、私が目を留める発信者には以下のような傾向があります。

            自分にない切り口からの評価

            評価の対象は、思考実験的なものから統計情報を元にした確度の高いものまで様々ですが、やはり眼を引くのは自分が知らなかった、思いもしなかった切り口からの意見です。こんな考え方があったのか、こんな使い方があったのかという驚きは刺激になるだけでなく、その後の行動指針にすら影響を与えます。

            しかし、ただ穿った見方やおもしろおかしい見方であれば良いのではなく、発信者のバックボーンが伺える切り口だと更に興味を引きます。慧眼や深い洞察は日々の生活の中で、どれだけ注意を払っているか、振り返っているかで決まっていくのでしょう。

            また、そういった独自の切り口を提供する発信者は、かなり偏った意見を出すことも多いですが、今、自分が偏ったことを発信しようとしているという事実も客観的に捉えた補足をしていることが多いです。

            全体像の解説

            ある状況や事象について、継続的な観察を行なっている発信者がよく行っています。新しい知識を獲得する際に、こういった「ベスト版」のような全体像の解説は非常に助けられます。

            情報を手に取る、タイミングや入り口は様々なので、時に誤解を持ったまま咀嚼しようとしていることがあります。そんな時に、こういった全体像の解説は自分の立ち位置を確認できますし、解説と照らし合わせて、情報の真偽を自分の視点で確認する助けとなります。

            意見や疑念の代弁

            私がインターネットをおもしろいと感じたのは、こういった発信者に出会えるチャンスがあるからです。常識、たしなみ、ブランドという価値基準は時に人の判断を狂わせます。どれもが後付で作られた価値観にも関わらず、民族性なのかどうかわかりませんが、振り回されている人は自分も含め非常に多いのです。

            その中で、自分なりの意見や疑念を、知り合いでも何でもない、どこに住んでいるかもわからない誰かが代弁してくれていると、不思議な安堵を得ます。特に自分が信用できると思うバックボーンをもった発信者による代弁は、今後の行動指針に大きな後押しとなります。

            「あの人と一緒だから大丈夫」という表面的なものでありません。大なり小なり、自分なりに時間をかけている意見や疑念は、人生にとっていつの間にか重要なテーマとなっています。偶然にせよ、同じテーマを持った人間がいるという事実は、大げさかもしれませんがある種の「救い」にすら成り得ます。

            それでも私がブログを書きたくなる理由

            代弁者の存在は、自分の考えを再整理するきっかけになります。これまでひとつの基準しかなかったものが、もうひとつの基準によって確度を高めたり、新たな発見を得ることになるからです。

            そこからもう1周して考えたことを自分への確認テスト、誰かにとっての代弁者になることを期待して私はブログを書いています。知的刺激を受けて、分散していた情報が一気に繋がっていくときは快感すら覚えます。そして、湧き出た思考を残したいという衝動に駆られるのです。

            ライフログが巷では人気ですが、思考ログ(Mind Dump)もその当時に何をしようとしていたかを振り返ることになり、比較対象として良き判断基準となるでしょう。未来の自分が振り返ったとき、その価値を感じるはずです。

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            あなたはフリーランスとして生き残れますか?
            2011.02 01

            CalmTechは開業3年目を迎えました。記念すべき日ではありますが、最近の開発者・製作者事情についてのエントリから思うところを、今後の自分への戒めを込めて残しておきます。

              ゆっくりと確実に変化するWeb制作のルール – 住 太陽のブログ

              Web製作者に向けてのメッセージですが、自分が商売する立場ならどうする?
              という問いかけに悩む人も多いかもしれません。

              私自身、2008年2月1日に独立開業して、3年目を迎えました。受託開発と講師という2足のわらじを履き、たくさんの人の支えがあり、自分を評価するならば「人に恵まれた人」としか言いようがありません。

              フリーランスが提供できる価値は何か?

              時代という最大のランダム要素を抱えながら、フリーランスとしてこれまで成り立ち、それなりに食べてこれたのは運もあるかもしれません。これまでの経験で確信しているのは、フリーランスにとって最大の商品は「自分」です。

              総合的なスキルは当然必要ですが、結局のところ、どこの馬の骨とも知れない個人を由緒正しい法人は簡単には信用しません。ビジネスは信頼関係が大事ですから、この人は信頼できると思ってもらえる人間性というものが、スキルと噛み合ったときに初めて自分を商品として発注側は捉えてくれます。

              しかし、それだけで一生うまくいくとは到底思えません。なぜなら、後ろ盾になるものがゼロだからです。1人で提供できる労働力には限界があり、物理的な競争には簡単に負けてしまいます。「自分」に加えて事業としての軸を持たなければフリーランスとして商品価値を高めるどころか、維持することもできません。

              その軸はメイン事業でなくとも良いと思います。ビジネスモデルを考える時に役立つかもしれない1つの仮説でも言及していますが、大きい額でなくとも、フリーランスとしての基板を支える、ベーシックインカムになる事業も必要です。私自身は、この1、2年でその軸を増やすための活動をしていく予定です。

              道具と同じステージに立ってはいけない

              真面目を真面目に考えてみた – 404 Blog Not Found

              今、様々な「活動コスト」が下がっています。業務コスト、販売コスト、発信コストと枚挙に暇がありません。ITというインフラは確実に様々なコストを下げ、後発のサービスが伝統を塗り替えています。自動化されればされるほど、コンピュータにできることをしていては、人の居場所はなくなる一方です。

              ITに関する様々な職種や仕事が生まれましたが、商売の本質はどこの業界であっても同じだと感じるばかりです。コンピュータはあくまで道具です。人にできないこと、面倒なことを肩代わりしてくれる便利な道具です。であれば、人間にしかできないこと、そして自分にしかできないことは何かを自覚することが大事です。これは今までに散々言われてきたことで、今更ではあります。

              技術なのかアイディアなのか人柄なのか、商品になりうるものは何でもありです。そういった要素の集大成としてビジネスモデルを構築することもありです。
              すると、自分程度の人材なんて余るほどいると悲観する人もいるでしょう。「この世でこれができるのは私だけ」というのは理想ですが、そんな素晴らしい物は誰でも持っているわけではありませんし、それを手に入れる機会や年月は想像もつきません。

              一歩引いてみると、私たちは同業者や関係者が集まる、あまりに狭い世界で生きていて、これを知っていなければ、これをできなければ恥という外聞に踊らされていますし(それを望んでいる?)、様々なマスメディアも不安を煽りこそすれ、今後どういう展開をしていくべきかという話はあまり掘り下げません。

              「何を売るか」よりも「どこで売るか」

              受託開発と商売と – 株式会社マジカジャパンの羽生章洋が書いてるブログ

              世界を見渡し、自分よりも上を見ればキリがありません。私はひとりですべての工程を完結できるのが理想だと考えているタイプです。だからこその考えかもしれませんが、視点を変えてみてはどうでしょうか?あなたにしかできない状況に自ら移動するのです。「この辺でこれができるのは私だけ」という状況はないか考えてみてはどうでしょうか?どこかにあなたの能力を求めている人がいるはずです。それもごく身の回りで。ニッチを見つけろというニュアンスではありません。穴をふさぐ立ち位置を探すのです。

              ビジネスのいろはとして、ターゲットの選定がありますが、ターゲットにも生活環境があります。ターゲットを取り巻く環境、背景を見定め、何かが不足している場所、ドメインを探すことが今後を生き抜くポイントになると思います。その限られた世界で必要不可欠な人になるのです。

              ものが無い時代だから売れたものは確かにあります。しかし今の時代、何でも簡単に手に入るように見えても、もっと広いドメインで考えれば、自分の当たり前を享受できていない、利便性を知らないままの人は思っているよりもたくさんいます。
              それは既存サービスの翻訳や焼き直しでどうにかなるものではないのです。そういう環境の人たちは、私たちの当たり前や利便性どころか、そのサービスの存在自体を知らない、もしくは目の前にあって見過ごしてることが多いからです。

              教え、教わる関係を構築する

              仮にも自分がコンピュータを活用した商売に立つ者なのであれば、コンピュータ利用によるメリットや可能性を伝えられる力を身につけていかねば、ビジネスは発生しません。SIer的なシチュエーションを前提にですが、ビジネスが発生する対象は、大なり小なり解決したい問題があります。
              まずはその対象の環境や背景を教わり、それと関する様々なトピックを教えることで、協力して解決できる可能性を示唆できます。ここで初めて、売ると買うという立場を構築するスタートラインに立つことができます。ここまでの過程には様々な引出しが必要です。必要不可欠な人は、そういった自分のアップデートを絶えず行っていると思います。

              教え、教わる関係は間接的なコミュニケーションであっても成り立ちます。大事なのは、自分が教えていることは、あなたにとって意味のあることだと気づいてもらうように伝えることです。それによって相手も自分にとって有用な情報を教えてくれます。

              生き残るのは少し先の未来を見せてくれる人

              技術力、コミュニケーション力、巷でフリーランスにこれから必要な能力はこれだと言う内容を散見します。とはいえ、10年後の自分を見通す人はいませんし、技術の進歩を見通す人もいません。予言や先見に確証はないからです。その時になって、過去の予言や先見が当たっていれば、「ほらね」と少し威張れるだけです。

              私が他の企業ではなく、フリーランスの人に仕事を頼むのであれば、今よりも多く利益を提供してくれて、今よりも良くなった未来の自分を見せてくれる人に頼むと思います。その未来は10年20年ではなく、半年後や1週間後でも良いのです。少し先の未来に人は対価を払おうとしてくれるのです。喉がかわいて仕方が無い時に、目の前にジュースの自販機があれば、間もなくジュースを飲んで幸せになっている未来にジュース代として対価を払っているのです。

              私が10年後20年後、どういう形で働いているかはわかりません。開発の最前線にいるのか、マネジメントをしているのか、はたまた路頭に迷っているのか。
              ただ、今後もITというインフラ、コンピュータという道具は最大限活用していくでしょう。そして、少し先の未来を見せられる人であり、必要な不可欠な人となるよう、自分をアップデートし続けて行きたいと思っています。

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              ビジネスモデルを考える時に役立つかもしれない1つの仮説
              2011.01 31

              前回、好意と義務の境目についてエントリを書きました。今回はそこからビジネスモデルを考えるときにつなげられる要素がないかを考えてみます。 途絶えないビジネスの要素は何か? 自分にとって、ビジネスモデルを考えていくときに大事 [...]

              前回、好意と義務の境目についてエントリを書きました。今回はそこからビジネスモデルを考えるときにつなげられる要素がないかを考えてみます。

              途絶えないビジネスの要素は何か?

              自分にとって、ビジネスモデルを考えていくときに大事なのは「細く長く続く」ことです。
              定義としては、「薄利だが、需要が半永久的であるため、ビジネスドメインの選定と品質向上を継続できれば収益は途絶えない」と考えています。
              最大利益を追求するというよりも、「食べていけるだけ稼ぐ」というニュアンスが強い想定です。
              これは、ベーシックインカムを構築するという目論見には特に重要です。

              競争率が高い市場はそれだけ途絶えにくい

              流行によるマーケットの一時的な拡大縮小はあるにせよ、長い目で見れば「途切れない」ことが重要です。
              その最たるものは、「衣食住」というライフラインそのものにビジネスを展開することでしょう。これは生命活動に関わるところだからでしょうが、中には長年の文化形成によって必需と化したものも対象になります。

              しかし、競合も多く薄利多売であることも多く、仕入れから製造、販売までをすべて自社でおこなう大手には、価格と品質ともに勝てません。ターゲットの選定やサービスの提供方法で突出することが求められます。

              ここで例にとるのは結婚式です。いわゆる冠婚葬祭というものは文化ですが、途切れないマーケットのひとつだと考えています。
              一般的に人生の一大イベントとして考えられるので、主催者側も独自性や費用対効果を吟味する傾向がありますし、
              地域差もあるためターゲット選定次第では入り込める余地があります。
              低価格という切り口ですと、専門学校生による結婚式、県民共済を利用したコスト削減など、時代の流れと一致してニーズを満たす例もあります。

              日本のビジネスモデルの特徴として、海外発祥のビジネスモデルを「和訳」して、普段からIT方面の動向にアンテナを張っていないユーザをターゲットに提供するという形態があります。
              これに対し、新しい技術を生み出せていないことに警鐘を鳴らす声もあります。しかし、歴史を振り返ってみると、模倣・和訳から始まって、品質を上げる努力を続けるうちに本家を超えた、というのが日本の特徴でもあります。
              私が住む青森県では、「海外」が「都心」に置き換わります。ただ、これは息切れが早いことが多く、発起人が次から次へと新しいアイディアを生み、スクラップアンドビルドを続けられる気質と、スタッフとの信頼関係が必要不可欠です。これだと最初に述べた継続性はあまり望めません。

              ニーズの発生源を見極める

              結局のところ、人間を相手に商売をするならば、根源的な欲求から何らかのニーズが発生します。ビジネスモデルを考える時に大事なのは、その欲求がどういうルートを辿っているかを把握し、その間に立つことだと思います。
              そして、その欲求がどういう感情から発生しているのかを把握することが大事です。中でも好意という感情は便乗しやすいもので、多くの集客効果をもたらす可能性があります。

              人間の感情という切り口から分析する

              ビジネスのヒントは、あまりに一般化して疑問を持っていない事象にこそあり、その事象の発生源を歴史ではなく、人の感情という切り口から分析することで、さらに市場価値が見えてくるだろうと考えています。
              これは常習化しているものを見直す際のヒントにもなると思います。人は感情の生き物であり、感情は欲求と密接につながっています。中でも自身の意欲を増進する感情、他人を巻き込むことができる感情をビジネスモデルの要素と捉えてみると、何かアイディアが生まれるかもしれません。

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              好意と義務の境目を垣間見るとき
              2010.11 11

              今年は自分にとって大きなイベントがありました。それは出産と結婚式です。 娘が誕生しました。育児と仕事の両立に追われる中で結婚式の準備もしました。結婚式というのは、立派なプロジェクトですね。しかも2回も行ったのですから尚更 [...]

              今年は自分にとって大きなイベントがありました。それは出産と結婚式です。

              娘が誕生しました。育児と仕事の両立に追われる中で結婚式の準備もしました。結婚式というのは、立派なプロジェクトですね。しかも2回も行ったのですから尚更です。県外の方向けと、県内の方向けに分けたのです。

              県外の方向けはご祝儀制、県内の片向けは会費制です。ご存じない方は「え?」と思うかもしれませんが、地域によって結婚式に参加するときに持って行くお金のルールが違います。
              私が住んでいる地域では会費制が主流です。勝手な想像ですが、小さなコミュニティで顔見知りばかりのため、結婚式の参加は付き合い半分というのが根づいているのでしょう。毎回毎回、大金を出していては家計が危うくなりますし、かといって付き合いを疎かにしては顔が立ちません。田舎暮らしの人間にしか分からない感覚かもしれませんが、それも文化のひとつなのだと思います。

              かといって、みんながみんな義務でお祝いしているわけではないのです。そこには昔からの付き合いだったり、大切な友人だったり、日頃からお世話になっている人だったり、「好意」としてのお祝いが間違いなくあります。
              今回は結婚式を例に進めますが、そこに好意と義務が共存していることが自分にとって、非常に興味深いことでした。

              参加者セグメントごとに好意と義務の割合は異なる

              親族かどうか、付き合いが深いかどうかで、会費の他にご祝儀があったり、お祝いをいただいたりというケースが発生します。
              結婚式は一見、好意を集めて成り立つ儀式のように見えて、義務が多くの割合を占めます。
              風土や気質によりますが、親族は義務が背景にあり、金品という形で好意を還元する傾向があります。日頃から仕事でお世話になっている人は義務の割合がおおくなります。しかし、プライベートでの付き合いが深いと好意がそれを上回る傾向にあります。友人は好意の割合が非常に多くなります。これは社会的責任などがあまり発生しない間柄のためでしょう。

              好意に祝儀・会費という義務を課す

              好意は無償に見えます。しかし、結婚式というシチュエーションの場合、費用が発生するために祝儀・会費という義務を課します。それが大切な友人であってもです。
              結婚式場やブライダルプランナー、お花屋、ケーキ屋といったビジネスと絡んでいくと費用が発生するのは当然です。言い方は悪いですが、好意と義務のすり替えが発生します。しかし、お祝い事なので、義務ではなく好意に見えるのだと思います。

              好意を薄めずに義務を果たす

              お祝い事とはいえ、冒頭にあるとおり、一大プロジェクトです。主催者側もやることは山積みで、祝ってもらうからには、それ相応の感謝を表したいと考えます。

              主催者の意向にもよりますが、会費内で収めるか、会費を超えて日頃の感謝を表す意味で還元するかは分かれます。
              人数が多くなってくると、人的負荷が高くなるため、如何に好意を薄めずに効率よく義務的作業をこなすかが大事です。例えば、メッセージカードを新郎新婦が直筆で全員に書く。というのは少人数なら辛くありません。ところが、田舎の結婚式は100人200人がざらです。

              テンプレートを作って印刷すれば安上がりですし楽です。しかし、好意に対して義務的な返し方は悪印象です。そこで作業負荷を上げすぎずに好意を伝える方法に頭をひねることになります。
              つまり好意を表すはずの作業が義務にすり替わる可能性を含んでいます。

              好意と義務は表裏一体

              好意と義務がいつの間にかすり替わるということは、表裏一体の関係なのだと思います。「せっかくのお祝い事ですから」というのはマジックワードで、商売側からすれば好意とお金をつなげるチャンスと言えますし、主催者側からすれば好意でもって義務を果たす原動力になります。参加者にとっては祝儀・会費といった金銭的義務を好意として解釈する理由になります。

              費用が発生する仕組みである以上、義務はなくなりません。大事なのは義務を納得するだけの好意を各々が受け取れるようにすることなのだと思います。
              各々が義務を十分に果たすと、顧客満足度、日頃の感謝、祝福などといった感情で好意が残ります。

              ふと思ったことがあります。好意や善意という感情を集める仕組みは、ビジネスモデルとして重要な要素を多く含んでいるということです。次はその可能性について考えてみようと思います。

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              人間にマルチタスクはできているのか?をiPad的UIで考えてみる
              2010.03 08

              4月下旬、iPadがいよいよ日本発売となります。iPadは様々な箇所で賛否両論を巻き起こていたようですが、その中で否定的な意見として言われたのが「シングルタスクだからダメ」というものです。おそらく、これは複数のアプリケー [...]

              4月下旬、iPadがいよいよ日本発売となります。iPadは様々な箇所で賛否両論を巻き起こていたようですが、その中で否定的な意見として言われたのが「シングルタスクだからダメ」というものです。おそらく、これは複数のアプリケーションを同時に起動しておきたいと言う意味だと思います。

              コンピュータをマルチタスクで動かすのは当たり前になっていますが、人間がそもそもマルチタスクをできているんだろうか?という疑問が湧いたので、それについて思考実験をしたことをまとめてみました。iPhoneユーザなので、改めて各々の操作を振り返りつつ、iPadで行ったとしてどうなるだろう?と考えて行きます。

              脳がそもそもマルチタスクなのか?という話を始めてしまうと、無意識や反射のことを考えなければならず、おそらく「よくわからない」と言う結論が大抵待っていると想像できるので、実際に動かしている部分がどうなっているかに焦点を当てて行きたいと思います。

              追記 2010/03/08
              Twitter上でマルチタスクの定義が不明確と意見がありました。ここでのマルチタスクの対象は後述しますが、目、耳、手のみとします。臓器や細胞まで考えると、話が拡散してしまうためです。また、目、耳、手を対象とするのも、アプリケーション操作において表層で主要となる部位であるためです。そこをつかさどる運動神経などには上記と同じ理由で深く言及しません。

              人間のCPUは1つだと言う仮定

              人間は1CPUをもったマルチタスク可能な動物で、訓練によってタスク切り替え速度をかなり向上させることができる。と私は仮定しています。よく両手でピアノが弾けるとか、ブラインドタッチができるというのが、同時進行で手が動いているように見えますが、ブラインドタッチについて言えば、指は逐次で動いています。これはキーボードでのインプット自体が逐次でないと受け付けていないからもでもありますが、同時押しも、指を逐次で押しています。それが相当な速度なため、できない人から見れば、同時に動かしているように見えています。

              おもしろいのはブラインドタッチの「フリ」をしてみると、次に何を動かせば良いか意識しなくてもよくなるので、ほぼ同時に両指を誰でも動かすことができます。逆にいうと、意識が大きく影響していると言う表れです。ただ、先述の通り、意識と言うものではなく、可動部位を中心に考えます。

              可動部位は重複させられない

              例えばiPadというデバイスを前にしたとき、私たちが利用できる可動部位として思いつくのは、目、耳、手になると思います。まずそれぞれの部位について同時進行のように見せられる組み合わせを考えてみます。

              目 + 耳

              動画再生をしている時などが考えられるます。説明字幕が出ている間にナレーションが進んでいたりすると、聞き漏らし、見落としが発生する場合があります。逐次で目と耳を切り替えながら、字幕とナレーションを交互に認識していると考えられます。

              目 + 手

              ホームでアプリケーションを選択している時や、写真をフリップしながら見ている時などが考えられます。まず目で操作対象を決め、実行するために必要な手順に沿って手を動かして行きます。扱っている情報の性質にはよると思いますが、目で始まって手で実行と言う逐次処理を求められます。

              耳 + 手

              キー入力をしている時に、入力音をONにしているとします。カチッという入力音が聞こえたことで、正確に入力されたと判断して、次の入力をおこなうと言う動作が可能です。目での判断も間違いなく入っているのですが、耳から手、手から耳と言う逐次処理を行っていると考えられます。

              可動部位には主従関係と優先度が発生している

              どのパターンにも言えることは、主となる可動部位があり、その実行結果に従って次の可動部位が連動していると捉えられます。目がほとんどの場合、主となっているはずです。目が使えない暗闇は耳に、音が特にない場合は手でなど、状況に合わせて優先度が変わっていきます。

              iPadに関しては視覚が必須のデバイスなので、目で対象を捉えるというのがトリガーになると考えられます。

              ここから2つある可動部位を重複として考えます。

              目 + 目

              目が2つあることで焦点合わせなどを行っており、同時に違うものを見るというのはできていません。視野の端にとらえると言うことはできますが、そのものを具体的には捉えられていません。焦点を移して行くことになるので、実質は逐次処理であると思います。

              耳 + 耳

              反射した音などを両側から捉えるというここと、どちらの耳から聞こえるかで方向の特定などができています。おそらく同時に聞こえているというのは成立していると思いますが、同じ方向から来る音を一緒に聞いているかというと、それはできていないはずです。片方からの音をまず捉え、頭の中の振動が反対側に伝わるか、反射した音がもう一方に遅れて入ってくるかでしょう。

              手 + 手

              厳密には指と言うサブシステムで考えるべきですが、両手で操作する場合は、フルキーボード入力が考えられます。これは冒頭に述べた通り、実際は逐次入力となります。また、指を2本以上同時に押す場合、それぞれが完全に独立して動くことはなく、例えば画像の拡大であれば、画面の中央から外側へと同じ方向へ動かしています。他の操作もそうです。

              マルチタスクはできそうだが、独立した同時処理はどうなのか?

              これまでの内容から、人間はマルチタスクが可能だと考えられそうです。ここで一歩進めて、同時に複数のアプリケーションが起動できるとして、独立した状態で使いこなせるのか?と考えてみます。目、耳、手は2つあるので同時に動かすことはできますが、独立して動かすのは困難だと言うことです。

              しかし、ここでそもそもの前提として足りないものがあると思いました。それはデバイス側、つまりコンピューターそのものが逐次処理のため、同時入力は受け付けていないと言うことです。2画面や複数アプリケーションという状況はあっても、フォーカス、つまりターゲットをまず決めるという処理が必要な以上、やはりコンピューター側の都合で同時入力はさせてもらえません。

              GUIであれば、フォーカスによって1つずつですし、CUIだとキーボード自体は同時入力できますが、内部での解釈は逐次処理になっています。実は人間の行動様式や可動部位を考慮してデザインされていると言われるデバイスも、コンピューター側の逐次処理という制約ありきということになります。

              それを考えると、複数のアプリケーションが同時に動くと言うよりは、同時に起動しているのと変わらないぐらい切り替えのストレスがないか、そう見せるインターフェースがあれば今は十分だろうと私は思います。

              そういう意味では、メニューとアクティブなアプリケーションが常時表示され、アプリケーションの切り替えも兼ねるWindows7のタスクバーは、かなり秀逸なデザインだと思います。実際、そのおかげでWindows用のDockが不要になりました。

              どのI/Oをどこまで独立させていけば良いのか?

              ピアノは鍵盤1つ1つが独立したI/Oですし、パーカッションもそうです。しかし、音としては独立していても、人間に取っては和音と言う結果を得ることができます。コンピュータのI/O、それらを総合したUIを考える場合、どこまでの単位で独立させると良いのか?ということについて再考が必要だろうと思います。

              マルチプロセッサが普及してきていますが、メモリ管理も含めて完全に独立処理というのは、できるできないがあります。演算と描画を独立させることでパフォーマンスが上がったように、同時処理ができるということは入力方式から再デザインされる必要があるのではと今は考えています。

              今回の思考実験は浅い考察だと思うので、I/Oを独立させる単位を考えなおすと言う方向で、また、まとめてみたいと思います。

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              操作フィーリングを構成する3つの要素
              2010.02 12

              自覚的デザインシリーズで継続しているデザインプロセスの言語化について、ルック&フィールのうち、特にフィールについて思うところがあった。自分向けのメモを兼ねて残す。 車両用の信号は点滅した方が安全ではないのか? そ [...]

              自覚的デザインシリーズで継続しているデザインプロセスの言語化について、ルック&フィールのうち、特にフィールについて思うところがあった。自分向けのメモを兼ねて残す。

              車両用の信号は点滅した方が安全ではないのか?

              そもそも、車を運転している時に困ることが1つある。青信号から黄色の信号に変わるタイミングが分かりにくいということだ。自分の視野に青信号が入ってから、自分が通り過ぎるまでに黄色に変わるかもしれないという予測は以下の要素から成り立っている。

              1. 信号に近づくまでの経過時間
              2. 現在の走行速度
              3. 道路状態(雪が降っていると特に余裕を持たなくてはならない)
              4. 歩行者用の信号の状態

              ここで最も簡単に気づくのは、周辺の歩行者用の信号が点滅しているかどうかである。すでに点滅が始まっており、通過するはずの信号までの距離が遠いのであれば減速を始める。これは歩行者用の信号が赤色に変わって間もなく、車両用の信号は黄色になるからだ。

              しかし、歩行者用の信号が常にあるとは限らない。であれば、車両用の信号自体、色が変わる前に点滅した方が、突然の急ブレーキとなる確率は下がるのではないか?赤か青に変わるときに点滅すると、フライングスタートする人がいそうで、危険な気もするが。

              前置きはともかく、操作フィーリングについて上記の話から、「予兆」「経過」「完了」3つの要素に分けられると仮定した。しかし、能動なのか受動なのかで内容が多少変わってくる。

              能動の場合

              予兆
              自分の意志でアクションを起こそうとしているので、その時点で不要。ルックとしてはアクションのトリガーだと認識できる状態にしておくのが好ましい。
              経過
              自分が起こしたアクションについて、正常に対象が作動して進行していることを示す。ローディング画面や拡大・縮小などの途中経過を表わすフィール。自分が今どこの段階にいるかを表示するナビゲーションも同様の意義を持つ。 長い時間を要するものほど、注意をはらうべき。瞬時に終わる場合は、むしろ不要だろう。
              完了
              アクションが終了したことを示す。ポップアップ通知や画面遷移など、それぞれの動作後に正常に終わったのか、異常があったのかを明示的に示す必要がある。特に異常時には再試行についての説明、導線が必要。どこの箇所に異常があったか表示、やり直しへの導くリンクなど。

              受動の場合

              予兆
              考える時間、次のアクションに入るまでの猶予を与える。次のアクションまでに残されている時間、注意書きなどによる告知。ポップアップなどの通知は基本、突発的に発生るものだが、最初の段階でどういった周期で通知されるのかなどが把握できていれば、なお良い。
              経過
              予定された処理が進んでいるという安心を与えるもの。インジケーターなどは能動の場合と同じであるが、受動の場合はそれ自体を意識からはずすことを期待しているので、経過を見せないでおくのも一つの手。
              完了
              これについては能動と同じが良いと思われる。ただ、経過を見えなくしていた場合、経過中に何が起きていたのかを詳細に知るすべを残しておく必要性はより高い。ログの表示や閲覧の方法など。ログがあると、情報のギャップを早期に埋めることができる。

              見直してみると、ソフトウェア設計の基礎とも言うべき内容が多分に盛り込まれている。情報過多になりがちな現代人にとって「気づかずに流れる」という状況が増え、確保出来る時間が細切れのため、即効性のある結果を求めている。

              流れては困る情報や自分の行動の結果がどうだったかを適切に通知する設計がされているものは、「解りやすい」という評価を得られていると思う。

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              作者について

              青森県内でソフトウェア・システム開発を行うフリーランスのプログラマー。元々は集中監視システム開発に従事。現在はウェブサイト製作・オンラインシステムの開発案件を中心に、プログラミングのスキルトレーニングや講演も行う。

              TEL 0172-55-7030  FAX 0172-55-7031
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